ニーゼロイチサン

あけましておめでとうございます。3年ぶりくらいの更新になります。
なんとなく生存報告してみようと思い立ちあいさつだけしに来た形です。
はてブの方はごく稀に使ってたので完全に停止していたわけでもないですし、はてな外でも普通に生活していたので報告せんでもよかったのですがなんとなく書きたくなりました。
一応元気にやっていますよということで。
ほんとに気まぐれであいさつしに来ただけなのでまた日記再開するかといえばうーんという感じです。久しぶりに更新したくなっただけなのです。
今年も、というのは変ですが、何か縁がありましたらよろしくお願いいたします。

ちなみに最近はパズドラばっかりしています。新年初パズドラ無限回廊でボコられるというものでした。ではまた。

開きづらい心

心を開放するのが怖い。傷つけられるのが怖いのだろう。だが僕自身も人を傷つけている可能性はある。傷つけないように生きているつもりでも僕の気付けていない何かが誰かの心を痛めつけているかもしれない。きっと僕もまた誰かを傷つけている一人なのだ。それなのに自分だけは傷つかないようにと心を晒さず生きている。実に弱っちいし卑怯だと思う。なにより自分に不利益だ。というかもったいない気がする。凝りきったいろいろをほぐしたいな、と思うのだ。

独りはいかん

人との交流をゆめゆめないがしろにするべきではないと感じはじめている。人間、一人では生きていけないぞという声が少しずつにじむように浮かび上がってくる。分かっちゃいたはずなのだが完全に信じきることはできずにいて、しばらく独立独歩してみてやっとここにいたる。独りで生きていけるか試そうなどと思ったのは、他者とのかかわりを避けたかったということもうっすらはあるし、何より新しい環境になじめるか心配だったのもあるだろう。ちょうどいい理屈を見つけたと喜び勇んで飛びついて、しばらくやってみてその辛さに気付いた。独りでいても思想はいくらでもテコ入れできるだろうと高をくくっていたが、これがまたかなり疲れる。なにしろ自分だけではどのくらい考えてどの程度妥協したらいいのか分からず、さじ加減ができなくて、いつまでも悩んでしまう。そんでもって常に背伸びし続けているもんだから心休まる暇がないのだ。心理的にはもう修行僧のそれに近い。悟りを開こうという訳の分からない志に準じているような気分だった。独りでしこしこ脳内文章をつむいでも全然新鮮さはないし、かたい頭がさらに固くなっていく。そういう孤独な思考というのは常々感情の奴隷になっていて、ただその時々の心のほころびを癒すためだけに働く。ちょっと不安な心持ちだったらその不安を打ち消すためだけの言葉を頭の中でひたすら呟き、死にたいような死んでしまいそうな気分になったら「いやまだ俺は死にたくない、自ら死ぬなんてありえねえ」と自分を鼓舞し続けるだけの脳になる。とにかく柔軟さに欠けてしまう。人との感情的なつながりを捨ててしまうとひたすら独りよがりな役立たずになり下がるのだ。これはきっと僕だけに限らないだろう。どんな人でも、「自分以外の生きた人」との笑いあいや感情の分かち合いを失えば、少しずつつまらない世界へと落ち込んでいってしまうだろう。これがきっと人間が人間であるゆえんなのだと思う。身近な世界で身近なものとしっかり関わり合わないと、満たされなさが心を占めるようになっていき、そのうち暗く虚しいばかりの死んだ心でかろうじて動く、寂しさが巣くったゾンビになる・・・と思うのだ。
こうしてみて思うのは、人とのつながりを何よりも大切にするべきだということだ。一人でできるものでも、独りでやるもんではない。そしてアナログなふれあいをほどほどにもつべきだ。言葉だけでは心安らぐことはない。

ゴリ、霧中で悪あがきする

しばらく物を書くことをしていなかった。何も書かないでいると自分の中に溶け込ませられない記憶や感情が溜まっていくように思う。ときたま、それを吐き出してやらないとどうにも心がぐらつく気がする。書き出しは何でもよいのだ。とりあえず文章をつづっていく。自分にとっては「書き出されたもの」それ自体には価値がなくてもよい。ただ「書く」ことに意味を持たせているからだ。自分の思うさまをできればありのまま、どう書くべきかの葛藤があればその葛藤を打ち込んでつづればいい。今はそのように考えている。以前「インプットがなければよいアウトプットも出せないだろう」と思い至って以来、それまでの自分よりは確実に多くのインプット・経験の蓄積をしてきたと思う。ただひたすらに見て聞いて読んできた。まだ棚に入れっぱなしで読んでいない本もあるし、見ていない作品もある。それらを自分の中での区切りがつくまで消費し、自分の中にある程度のものを蓄積できたなら、もしかしたら何かが変わるのではないか、という淡い期待が前々からずっとある。はっきりとした目標のない中でやっとのことで見出した目指すべき場所・目指してみたい場所がその期待の向こうにあるのだ。もしかしたらこれは意味のない目標で、ところどころほつれた頼りない理屈で編み出した逃げ口上なのかもしれないとも考えたりもする。何か逃げてはいけないもの(うっすらと気付いてはいるが明言したくないのでぼかしているもの)から目をそらすのではなく、別の対象を作りそちらを見つめ続けることで結果的には目をそらしているのではないかと思うのだ。「思う」などと言って分からないふりをしているが、本当のところなんとなく分かっているのだ。やるべき時にやらなかったことへの申し訳なさ・情けなさ、そして直視したくない孤独である。大げさな言い方であるならば、改めて「じわじわ締め付ける焦りとさびしさ」であると言いなおす。ただただ耐え、受身であり続けるだけではだめで、また、遠回りをして解決しようとしても未だその先に光明は見えないでいる。これから先も遠回りなやり方は続けていくつもりだが、もしその方法では自分にとっての「壁」を崩せないようであれば、とるべき道は限られる。思考するかぶつかるかだ。別に両方のやり方で行ってもいいが、かっこいい気がするのでその二極化で締めるとする。

ひとりよがりの暗中模索は疲れるばかりでまじやおい

将来について考えたほうがよいのかもしれない。いま自分が何でもかんでも「やるべきだそうすべきだ」と強迫的に考えてしまうのは、未来のためには今どんな一歩を踏み出せばよいかが分からなくなっているからのような気がするのだ。将来的にはどうなりたいか、どういう未来を作りたいか、自分のビジョンを持っていたほうがよいように思う。かといって何を考えればいいのやら見当がつかない。小・中は義務的に学校へ行っていればよかったし、高校もほぼどんな人間でも進学するのが当然であるという風潮が主であったからとりあえず入学し通学していればよかった。だが高校卒業のあたりからそういう流れに身を任せるだけの人生には待ったがかかるようになる。自分の身の振り方を考える必要が出てくる。進学するのか、就職するのか。進学するにしても大学か何かの専門学校かそれとも短大か。就職なんてもっともっと選択肢が増える。選べる選べないはともかく可能性は膨れ上がる。つまり高校を卒業するころからかなり「自己」を定めていくことになる。これがまた僕には難しい。日ごろから優柔不断であり意志が弱くもろい性質であるので、自分の将来などというのもまったくもって見当をつけていなかった。はたまた検討していなかった。漠然とやりたい仕事なんてものを描いてはいたがそれは小学生が先生に問われたときに答えるような本当に茫漠なイメージの「なんとなくなりたい職業」とほとんど違わないのだ。僕はその程度の将来感しか持っていない。実にあやふやで、足元が綿菓子のようだ。それでもってなんとなくのまま大学に合格できてしまったのが悔やまれる。ビジョンも何もないまま、大多数が行っている・行ってから考えればよいなどというゆとった志のままで次の一歩を踏み出してしまったのだ。自業自得ではあるけどほんとに馬鹿だ。つらい。何のために今を送っているのかが分かっていないのだ。そもそも何を成せばよいのか、何を成すために何をして生きていけばよいのか、さっぱりわからない。行動を起こすのも何か嫌なのだ。企業に行くのもいやだし、積極的に何かに挑戦していくのも怖くて嫌なのだ。本当に駄目な性分が根付いている。自分を脅かすような人間に近づきたくないというのが根底にある気がする。いじめられた経験があるからだろうか。自分にとって肉体的精神的に脅威となるような人間が嫌なのだ。笑い声も人混みも会話もなにもかも、危害の臭いを感じる限りはもうだめなのだ。全てを他人のせいにするわけではない。でも原因になったのであろう過去僕をいじめたやつらにはどうしても恨みつらみが向く。彼らにとってそれはいじめではなかったのかもしれない。それでも何年も経っているはずの今の僕は、そういう原体験によって心を構築され占められているのだ。時たま思い出し苦しんでいるのだ。謝れとは言わないし言えないだろう。ただ自分のした行為を死ぬまで覚えておき死ぬまで恥じてほしいと願う。されたものだけが苦しむなんて割に合わない。とここで言っても仕方はないが一応流れで書いてしまったので残しておくことにする。とにかく僕は将来を考えるという行為に関しては、積極性の薄さ・優柔不断さ・人との接触嫌いといろんな要素があいまって非常に向いていないのだ。甘えといわれるだろうか。その通りだ。甘えである。自分の将来は自分で責任持って考えたほうがよいのだろう。だから積極性を分けてほしい。手に入れたい。人嫌いを直したい。願望そろえても動かにゃかなえられない。そこでもうジレンマだ。初動分の積極性を得る方法教えてほしい。

母なる悩み

納得いかないまま納得できない選択をして納得いかない生活を送ってきていたようだ。「いつか」と「仕方ない」を繰り返して、現実を捉えず夢を見ながら、小さな一歩と称してくだらない経験ばかり溜めこんできた。そうだ。寝ても覚めても心にあったこの思いは「腑に落ちないけどいつかは・・・」だったようだ。うまくいかない今を直視しないようにして、改善できうる明日だけを見て、ただ次の日の自分に荷を任せてただけ。なくてもいい一歩ばかり踏み出してほんとに欲しいものへは近づいていなかった。自分の中にある知識や経験や葛藤や迷いをまとめあげて納得いく形にこしらえていくことをやめていた。確固たる自分を打ち出す自信も力もなかったのだ。いや今もない。この納得のいかない世界と自分が嫌なのだ。全部わかって全部まとめて全部はっきりさせたい。そういう思いが底の底に潜んでいて、いつもいつも納得できない不満足で不自由な自己のままに生きていたのだ。今も納得できぬまま文章を書いている。本当に伝えたいことが何なのか、本当に書き残したいことが何なのか、そしてそれはこの形で伝わるのか、本当に伝わったとどうすればわかるのか。どうすれば僕は納得できるのか。要は自己満足の問題なのだ。僕の悩みはおそらくそこから拡散してそこへ収束する。

クラナド〜AfterStory〜

とりあえず泣きもうした
とにかく泣いてすっきりしようとしていたために泣こう泣こうとしすぎていたかもしれないが、
それを差し引いても涙腺にきよった。
「なぎさあああ」と叫びながら走り回りたくなったが隣人さんに迷惑かけそうなので諦めた。
それにしてもネットはマインスイーパで地雷を最大数に設定したとき並みにネタばれ地雷が目についてしまう。
これからはむやみに知らない作品のネタに触れないようにしよう。
事前情報があると第一印象に自信持てなくなる。