ひとりよがりの暗中模索は疲れるばかりでまじやおい

将来について考えたほうがよいのかもしれない。いま自分が何でもかんでも「やるべきだそうすべきだ」と強迫的に考えてしまうのは、未来のためには今どんな一歩を踏み出せばよいかが分からなくなっているからのような気がするのだ。将来的にはどうなりたいか、どういう未来を作りたいか、自分のビジョンを持っていたほうがよいように思う。かといって何を考えればいいのやら見当がつかない。小・中は義務的に学校へ行っていればよかったし、高校もほぼどんな人間でも進学するのが当然であるという風潮が主であったからとりあえず入学し通学していればよかった。だが高校卒業のあたりからそういう流れに身を任せるだけの人生には待ったがかかるようになる。自分の身の振り方を考える必要が出てくる。進学するのか、就職するのか。進学するにしても大学か何かの専門学校かそれとも短大か。就職なんてもっともっと選択肢が増える。選べる選べないはともかく可能性は膨れ上がる。つまり高校を卒業するころからかなり「自己」を定めていくことになる。これがまた僕には難しい。日ごろから優柔不断であり意志が弱くもろい性質であるので、自分の将来などというのもまったくもって見当をつけていなかった。はたまた検討していなかった。漠然とやりたい仕事なんてものを描いてはいたがそれは小学生が先生に問われたときに答えるような本当に茫漠なイメージの「なんとなくなりたい職業」とほとんど違わないのだ。僕はその程度の将来感しか持っていない。実にあやふやで、足元が綿菓子のようだ。それでもってなんとなくのまま大学に合格できてしまったのが悔やまれる。ビジョンも何もないまま、大多数が行っている・行ってから考えればよいなどというゆとった志のままで次の一歩を踏み出してしまったのだ。自業自得ではあるけどほんとに馬鹿だ。つらい。何のために今を送っているのかが分かっていないのだ。そもそも何を成せばよいのか、何を成すために何をして生きていけばよいのか、さっぱりわからない。行動を起こすのも何か嫌なのだ。企業に行くのもいやだし、積極的に何かに挑戦していくのも怖くて嫌なのだ。本当に駄目な性分が根付いている。自分を脅かすような人間に近づきたくないというのが根底にある気がする。いじめられた経験があるからだろうか。自分にとって肉体的精神的に脅威となるような人間が嫌なのだ。笑い声も人混みも会話もなにもかも、危害の臭いを感じる限りはもうだめなのだ。全てを他人のせいにするわけではない。でも原因になったのであろう過去僕をいじめたやつらにはどうしても恨みつらみが向く。彼らにとってそれはいじめではなかったのかもしれない。それでも何年も経っているはずの今の僕は、そういう原体験によって心を構築され占められているのだ。時たま思い出し苦しんでいるのだ。謝れとは言わないし言えないだろう。ただ自分のした行為を死ぬまで覚えておき死ぬまで恥じてほしいと願う。されたものだけが苦しむなんて割に合わない。とここで言っても仕方はないが一応流れで書いてしまったので残しておくことにする。とにかく僕は将来を考えるという行為に関しては、積極性の薄さ・優柔不断さ・人との接触嫌いといろんな要素があいまって非常に向いていないのだ。甘えといわれるだろうか。その通りだ。甘えである。自分の将来は自分で責任持って考えたほうがよいのだろう。だから積極性を分けてほしい。手に入れたい。人嫌いを直したい。願望そろえても動かにゃかなえられない。そこでもうジレンマだ。初動分の積極性を得る方法教えてほしい。