言葉は無限、時間は有限、語れる世界は限られる

だから本はなくならないんだね。なーんちゃって。

思いつくままに書くなんてできない。どっかでフィルターかけちゃう。どこかで自分に嘘をつく。たぶんどこでだって嘘つき。本当、なんてのがあるはずもないだろうけど、やっぱどこかで信じてしまう。表出したものだけが真実で埋もれたものは無いのと同じ。だから良いことだけ言ってりゃ良いことしか起きてないのと同じ。そう思ってみる。でも腹の奥のほうは正直で、焦りとか不安みたいな余計としか思えない感情を、どうやってかは知らないけど、作り出してみせる。それを感じているのは脳みそであり神経細胞の集まりであるけど、改めて思ってみないとその前提は忘れたまま。細胞なんてのも約束にすぎないし、覚えてようが忘れてようが、「心への影響」に生じる誤差はそれこそ宇宙から見た「僕」という細胞群ぐらい小さなものだ。宇宙だと現実味に欠けるから埼玉県上空からみた赤ちゃんのころの「僕」、ぐらいにしておこう。生まれは埼玉です。それがいまは文字存在になって情報になってネット上でありふれたデータの一部になっているなんて、当時の僕は微塵も思わないでミルクをかっくらっていたことでしょう。過去を思うとやけに物悲しくなるのは二度と訪ねられないからなのか。思い出すことは過去を訪ねることと同じだからなのか。なんにせよまだ若いから振り返る必要はないよね。今日は昨日を振り返ることが多いだろうけど、一昨日は振り返らないこともまた多い。明日を思うこともよくあるけど、あさっては思わないこともまたよくある。でも、ずっとずっと昔を振り返ることはちょっとある。そしてずっとずっと未来を思うこともちょっぴりある。たぶん僕はずっと前と昨日と今日と明日とずっと先の中でだけ生きている。まあ、案外、人間って、そういうもんだよ。うるせーばか。お前のことなんて誰も見てねーっつーの

(あえて「。」をつけないという自分への反抗)←だからだれもみてねーよ