ゴリ、霧中で悪あがきする

しばらく物を書くことをしていなかった。何も書かないでいると自分の中に溶け込ませられない記憶や感情が溜まっていくように思う。ときたま、それを吐き出してやらないとどうにも心がぐらつく気がする。書き出しは何でもよいのだ。とりあえず文章をつづっていく。自分にとっては「書き出されたもの」それ自体には価値がなくてもよい。ただ「書く」ことに意味を持たせているからだ。自分の思うさまをできればありのまま、どう書くべきかの葛藤があればその葛藤を打ち込んでつづればいい。今はそのように考えている。以前「インプットがなければよいアウトプットも出せないだろう」と思い至って以来、それまでの自分よりは確実に多くのインプット・経験の蓄積をしてきたと思う。ただひたすらに見て聞いて読んできた。まだ棚に入れっぱなしで読んでいない本もあるし、見ていない作品もある。それらを自分の中での区切りがつくまで消費し、自分の中にある程度のものを蓄積できたなら、もしかしたら何かが変わるのではないか、という淡い期待が前々からずっとある。はっきりとした目標のない中でやっとのことで見出した目指すべき場所・目指してみたい場所がその期待の向こうにあるのだ。もしかしたらこれは意味のない目標で、ところどころほつれた頼りない理屈で編み出した逃げ口上なのかもしれないとも考えたりもする。何か逃げてはいけないもの(うっすらと気付いてはいるが明言したくないのでぼかしているもの)から目をそらすのではなく、別の対象を作りそちらを見つめ続けることで結果的には目をそらしているのではないかと思うのだ。「思う」などと言って分からないふりをしているが、本当のところなんとなく分かっているのだ。やるべき時にやらなかったことへの申し訳なさ・情けなさ、そして直視したくない孤独である。大げさな言い方であるならば、改めて「じわじわ締め付ける焦りとさびしさ」であると言いなおす。ただただ耐え、受身であり続けるだけではだめで、また、遠回りをして解決しようとしても未だその先に光明は見えないでいる。これから先も遠回りなやり方は続けていくつもりだが、もしその方法では自分にとっての「壁」を崩せないようであれば、とるべき道は限られる。思考するかぶつかるかだ。別に両方のやり方で行ってもいいが、かっこいい気がするのでその二極化で締めるとする。