日記を書くと何かよいことがあるのだろうか

日記を書くことで得られるものとはなんだろう。まず、日記とは毎日のイベントとその時々の感情を書いていくものである。どんなことでも書いていいし、書かない日があってもいい。書く内容はさまざまだ。その日食べたものをつらつらと書いていくだけでも本人がそうだと言えば、それは日記になる。その日の歩数記録であっても日記になりうるし、まばたきの回数だってくしゃみの回数だって書いてしまえば日記だと言い張れる。日々のいろいろを記録すればそれは日記たりうるのだ。では、その記録から得られるものとは何だろう。記録することがらによってそれは変化するだろう。加えて、どんな下らない一文であっても必ず何かをもたらしてくれる。何を書いたとしても、未来の自分にはたくさんの利益を与えられるのだ。過去の自分の言葉は「過去の自分の言葉である」というだけで意味がある。そのとき自分は何を思っていたのかを想像することができるのは非常に楽しい。楽しめるという点だけを見てみても、日記を書くことには十分に価値がある。案外忘れっぽい生き物である人間にとっては知識の宝庫であったりもする。その日一日を思い返しながら書いた日記には、本来ならその日限りで失われるような考えや知識が詰まっている。それらは後で何度か読み返すことで頭に染み付いていく。日記を書くことで一時的な記憶を長期的な記憶にすることが可能となるのだ。ただテキトーに書いた日記であっても得るものは大きく、じっくり一日を反省しながら書いた日記はそれ以上に得るものがある。日々を断片的に蓄積していく「日記」は、短い人生を謳歌する上でとても有用だ。


そう考えた僕は、日々をつづりゆく時間を大切にしようとまた日記を再開することにした。書かなきゃ人生始まらぬ。

今日は終了式だった。これといったイベントはなし。▼図書室に西尾維新の「刀語」が追加されたと図書だよりにあったのには少し驚いた。▼三年生でのクラスを発表するのは30日らしい。もし変なクラスになったら図書室で本を借りてのんびりと生活するかな。▼部活ではそこそこの的中を出せた。だが射形はまだ満足いくものではない。押し手の緩みと勝手の戻りが最重要課題だ。▼あの子に髪を切ったのを気づいてもらえたのはうれしいが、昨日既に会っていたということは忘れたことにしたほうがよいのだろうか。それほど人は周りを見ていないものであるし、僕が会っていたように思っても相手は気づいていないというのはよくあることだろう。▼新一年生が入学説明を受けに来ていたので部活勧誘のビラ配り。現一年生を統率しきれずにイライラする羽目になってしまった。やっぱ先輩後輩の壁がない部活なんて成り立たないのだろうか。現二年生にも関係がうまくいかない原因はあるだろう。うまくいっていないのは僕だけである気もするが・・・。それはさておき、新一年生に金髪少女がいたので興奮した。僕は金髪に目がない。金髪には否応なくエロスを感じてしまう。入部してくれることを願う。ちなみに、合格発表時にもビラ配りをしたのだが、そのとき彼女にビラを渡したのはまぎれもないこの僕である。だって来て欲しいじゃないか。▽余計なことを考える癖はなくしたほうがよい。