思考・公開→知らない人

文章を書くってことは誰かに自分の考えを伝えるってことだ。自分の体験や知識や思考の流れや結果を誰しもが扱い理解できる言葉に置き換えて伝達し、相手との間に文章を通じ何らかの関係を築く行為だ。文章を書いている時点で、少なからず伝えたい相手がいて伝えたい情報がある。何を伝えるでもなくただただ書き綴られた文章は自己を満足させるためのものだ。そのような文章は自分に向けて書かれている。自分の中の理想の読者に向けて書かれている。自分が読んで欲しいように読んでくれる、自分のための読者が想定されている。だが理想の読者なんて自身の生み出した虚像であり、熱でうなされながら見た幻だ。幻に向けて書いた文章は自分の中の幻だけが読み楽しむ。たまたま幻に向けて書いた文章が現実に存在する一人の人間に対して作用することもある。でもそれはたまたまだ。もし現実にいる人間が対幻文章を読み何かを感じ取ったなら、その人もまた幻を飼っている。幻を飼う者達だけが幻を共有し理解しうる。幻はすなわち理想だ。叶いもしない絵空事の妄想の、未来を想ってこねくりまわす甘い希望だ。行動できないで、立ち尽くすことに慣れ、頭の中で想像を駆使して、未来を予想しようとして道をそれていく人間達だけが抱く、たまに共有できてしまう希望だ。それにとらわれてしまった人々は幻想から飛び立てずに足踏みをして静止してしまう。そうしてまた幻想を飼いはじめる。幼いがゆえに幻想を好む。そして彼らは文章がはびこるインターネットで自分と似た人間、自分と似た文章を探す。自分と同じ、幻想の飼い主を探すのだ。探して、見つけて、彼らはそれを称賛する。幼い書き手は幻想中級者の大人びた口調に誘惑されて、文章を伝える対象を見誤る。誰のために書くのか。喜んでくれるあの人のため。実際は、自分と同じ幻想を飼っているあの人のため。対象を引っぺがすと、自分の理想像のため。嬉しがる自分のために文章を書く。こうして、外部に開かれていながら内へ内へと突き進む変なブロガーが生まれるのだ。自身の理想を満足させるための文章に、そんなにも喜ばないでくれ。勘違いしてしまうから。

インターネットで文章を公開するのは恐ろしいことだ。どこを褒められるか分からない。
あなたは幻想を褒めてはいないか?道を誤るのはあなただけで十分だ。

若者・日記→知らない人

僕の知る限りでは多くの中高生は日記を書いている。紙ではない。携帯だ。キーを打ってネット上に放流する。想定されている読み手は同級生、限定するなら友人だ。彼らは不特定多数が利用しうるネット上で、対象を極めてピンポイントに絞り自分の日常や思考を記述し共有し、楽しむ。僕からすると危なっかしくて見ていられない。だが僕は見る。彼らの日記をマウスをこねくるだけで読む。リスクが一切ないから読む。通常知りえないはずの彼らの思考と日常と関係を表面上ではあるが知ってしまえる。彼らは僕が読んでいることを知らない。僕も彼らが誰にむけて書いているのか知らない。恐ろしく不気味だ。主に僕自身が大いに不気味だ。気色の悪い支配感まで沸いてくる始末だ。それではなぜ僕は彼らの日記を読むのか。もちろん楽しいからだ。気色悪い、と僕自身も思っているはずなのだが止めようがない。知りうるはずのない同級生の日常と脳内を垣間見ることのグロテスクな楽しさには抗えず、僕は気が向いたらそれらを覗いてしまう。この構図は怖すぎる。この状況を淘汰する必要がある。

ネット上で日記を書くことのメリットは不特定多数と意思疎通が図れることだ。日記であるから自らの興味を惜しげもなく記述できるし、悩みも感情も情報も共有できる。個人を特定できない程度ならばそれでいいのだ。だが若者はそれらを身内と身内の友人達とのコミュニケーションツールとして使っている。個人を特定できることなんてのはあって当然の大前提なのだ。友達の友達に自らを伝えるという目的を達成するためには個人を細部まで描写し伝達する必要が生ずる。そこで、まったく知らない人間が、「友達の友達」以上に遠く離れた介入者が現れたら。こうして胸糞悪い構図が発生する。

若者達はここのところをとーんと失念している。僕もまだ若いが彼らよりかはネット中毒者だ。ネットで晒しても恥ずかしくないネットジャンキーだ。必要以上に個を描写する危険は彼らよりちょっぴり分かっているつもりだ。彼ら若者は目の前の関係に焦点をあわせすぎて視野が狭くなっている。ネット上であることを忘れ友達の友達レベルまでの視野で日記を書いてしまっている。自分の写真も上げるし、好みも恥ずかしげもなく晒すし、あまつさえ日々を描写する。ふと思い立ったかのように日記に鍵をかけてみたりするがそれは井の中でだけ通用するいわば「約束」だ。友達の友達レベルでだけ通用する差別化だ。ごくごく親しい者達だけに見せているよという自己主張であり、そこに「知られることの危険」を思い浮かべているんだと言うのはネットジャンキーだけだ。セキュリティでなく注意書きなのだ。彼らにとっては、ルール無視の第三者がいるかもしれないなんていう想像は、朝起きたら座薬になっていたみたいなことを想像するのと同義だ。ギャグを超えない。ギャグ以下だ。

彼らを変えるのは何だろう。コミュニティを脱することは難しいだろう。
では最初からやらないというのどうだろう。
そうできる人は変わる必要がない。あるがままで既に危機管理できている。
ではどうすればよいのか。そうだ。ネットジャンキーが変わるのだ。

若者のネットとジャンキーのネットの境界線を強く意識するのだ。そんなものありはしないだろう。つまりはネット中毒者たるものの精神の強さが鍵になる。僕達の「約束」を遵守するのだ。僕らは、ネットを二分するしかない!

だめだ。無茶を言ってみるだけでは現状維持だ。いっそ若者同士で交換日記でも始めたらどうだろうか。携帯電話打ちこわしの令を発布しマスゴミが交換日記をプッシュする。これが流行ればなんてことはない。だめだ。友達の友達と交流を深めたい若者のニーズをどうするんだ。風船に日記をくくりつけ飛ばすか。いや、宇宙人が読んだらどうする。だめだだめだだめだだめだ。若者の個人情報ばら撒きに歯止めを効かせるにはどのような方法をとればよいのだろうか。僕が悩むことではないが、僕のような気色悪い構図を構成しうる人間は生み出すべきでない。他者を覗き見しにやつくようなさまを文化に植えつけるなんて言語道断だ。やはり、ネットを扱う者の良心に委ねられてしまうのだろうか。