若者・日記→知らない人

僕の知る限りでは多くの中高生は日記を書いている。紙ではない。携帯だ。キーを打ってネット上に放流する。想定されている読み手は同級生、限定するなら友人だ。彼らは不特定多数が利用しうるネット上で、対象を極めてピンポイントに絞り自分の日常や思考を記述し共有し、楽しむ。僕からすると危なっかしくて見ていられない。だが僕は見る。彼らの日記をマウスをこねくるだけで読む。リスクが一切ないから読む。通常知りえないはずの彼らの思考と日常と関係を表面上ではあるが知ってしまえる。彼らは僕が読んでいることを知らない。僕も彼らが誰にむけて書いているのか知らない。恐ろしく不気味だ。主に僕自身が大いに不気味だ。気色の悪い支配感まで沸いてくる始末だ。それではなぜ僕は彼らの日記を読むのか。もちろん楽しいからだ。気色悪い、と僕自身も思っているはずなのだが止めようがない。知りうるはずのない同級生の日常と脳内を垣間見ることのグロテスクな楽しさには抗えず、僕は気が向いたらそれらを覗いてしまう。この構図は怖すぎる。この状況を淘汰する必要がある。

ネット上で日記を書くことのメリットは不特定多数と意思疎通が図れることだ。日記であるから自らの興味を惜しげもなく記述できるし、悩みも感情も情報も共有できる。個人を特定できない程度ならばそれでいいのだ。だが若者はそれらを身内と身内の友人達とのコミュニケーションツールとして使っている。個人を特定できることなんてのはあって当然の大前提なのだ。友達の友達に自らを伝えるという目的を達成するためには個人を細部まで描写し伝達する必要が生ずる。そこで、まったく知らない人間が、「友達の友達」以上に遠く離れた介入者が現れたら。こうして胸糞悪い構図が発生する。

若者達はここのところをとーんと失念している。僕もまだ若いが彼らよりかはネット中毒者だ。ネットで晒しても恥ずかしくないネットジャンキーだ。必要以上に個を描写する危険は彼らよりちょっぴり分かっているつもりだ。彼ら若者は目の前の関係に焦点をあわせすぎて視野が狭くなっている。ネット上であることを忘れ友達の友達レベルまでの視野で日記を書いてしまっている。自分の写真も上げるし、好みも恥ずかしげもなく晒すし、あまつさえ日々を描写する。ふと思い立ったかのように日記に鍵をかけてみたりするがそれは井の中でだけ通用するいわば「約束」だ。友達の友達レベルでだけ通用する差別化だ。ごくごく親しい者達だけに見せているよという自己主張であり、そこに「知られることの危険」を思い浮かべているんだと言うのはネットジャンキーだけだ。セキュリティでなく注意書きなのだ。彼らにとっては、ルール無視の第三者がいるかもしれないなんていう想像は、朝起きたら座薬になっていたみたいなことを想像するのと同義だ。ギャグを超えない。ギャグ以下だ。

彼らを変えるのは何だろう。コミュニティを脱することは難しいだろう。
では最初からやらないというのどうだろう。
そうできる人は変わる必要がない。あるがままで既に危機管理できている。
ではどうすればよいのか。そうだ。ネットジャンキーが変わるのだ。

若者のネットとジャンキーのネットの境界線を強く意識するのだ。そんなものありはしないだろう。つまりはネット中毒者たるものの精神の強さが鍵になる。僕達の「約束」を遵守するのだ。僕らは、ネットを二分するしかない!

だめだ。無茶を言ってみるだけでは現状維持だ。いっそ若者同士で交換日記でも始めたらどうだろうか。携帯電話打ちこわしの令を発布しマスゴミが交換日記をプッシュする。これが流行ればなんてことはない。だめだ。友達の友達と交流を深めたい若者のニーズをどうするんだ。風船に日記をくくりつけ飛ばすか。いや、宇宙人が読んだらどうする。だめだだめだだめだだめだ。若者の個人情報ばら撒きに歯止めを効かせるにはどのような方法をとればよいのだろうか。僕が悩むことではないが、僕のような気色悪い構図を構成しうる人間は生み出すべきでない。他者を覗き見しにやつくようなさまを文化に植えつけるなんて言語道断だ。やはり、ネットを扱う者の良心に委ねられてしまうのだろうか。