「会話すること」について、本気出して考えてみる

会話について悩んでいる。会話の仕方について悩んでいる。どのように会話をしたら良いかが、分からなくなってきているのだ。どうすれば話が続くのか、どうすれば相手を笑わせられるのか、どうすれば話を弾ませられるのか、考えている。四六時中、考えている。いくつか解決方法を編み出したり参考にしたり真似したり盗んだり獲得したりはしたのだが、悩みは晴れない。解決できない。そもそもそれじゃあ解決できていないのだけど、突っ込みはなしでお願いしたい。


本気出して考えるとか言ってみたけど、家族がいてタイピングしづれえ!
ひとまず会話について書かれた記事やらブログやらを読む。けっこう会話についての悩みを抱いている人が多くいて安心したり。うーん、同じ人間でありながら差異が出るのは、世界の広さゆえかな、と達観してみる。


本題。
脳内で思考してみた限りでは、自分のことを話していないから話が続かないのではないか、とかいう答えに行き着いた。相手に自分の視点や興味を語っていないから話を振りにくいのではないか。


だから、まず自分の身の回りや自分の考えたことについて話してみる。例えば、芸能人ではピーコが好きだとか、テストの結果がとんでもなかっただの、脈絡は気にせずになんでもいいから話題を振ってみる。逆に、話題を振られたら、自分の体験談を交えながら返答してみる。自分の経験や内面を、強すぎず弱すぎず、しなやかかつ面白く話し、聞いてもらうのである。


「自分のことばかり話す人は嫌われる」というようなことを、見たり聞いたりすることがよくある。でもそれは、自分のことを話すなと言っている訳でなく、自分の表現はほどほどにして相手の表現もよく聞け、ということであって、決して「相手の話にひたすら頷け」と言っているのではないだろう。双方がまず自己主張をすることで、その先にある「言葉の交わしあい」「対等なコミュニケーション」を望めるのではないか。


相手が話していて気持ち良いと思ってくれるなら自分は聞くだけでいいや、と思ってしまうのはいけないんじゃないだろうか。それはホストのお仕事であり、僕ら一般人はそこまで気を使う必要は無いはずだ。


つまり、会話が続かないのは自分の存在を消しすぎているからだ、という結論になる。ここから導き出される解決方法は「聞き半分、自己主張半分の会話をする」である。


もしかして、めちゃめちゃ当たり前な事項に着陸していたりするのだろうか、と少し不安になる。聞き上手は会話上手なんだという認識が、(おそらく)人一倍強い俺にしか適用できない方法かもしれない。そんなことは承知の上で書き始めているから別にいいんだ!なんて言い訳してみる。こうやって自己否定と自己肯定を繰り返すから話が続けづらいのかな、と再び悩む。


むしろ、無理に話を弾ませようと考えあぐねてばかりだから、返答につまり、相手にも返答をしづらくして、泥沼にはまってしまっているいるんじゃないか、とも思う。弾んでこそ会話だ、それこそ目指すべきものだ、という理想的認識が強すぎるのかもしれない、と考察する。いっそのこと「どこにぶっ飛んだっていい」「会話は質じゃねえ、量だ」と開き直ってしまうべきかも知れない。そのほうが言葉に詰まらず、気を使いすぎない、楽しく良質な会話を行えるのではないかな、とも想像する。


考えすぎて深みにはまった挙句自我に踊らされている、チキンボーイになってしまっているだけなのかな、とか思った。他人主体の精神が身に染み付いている自分を変えたい、と願ってみる。行動も起こしてみるつもりだ。現に今日は少し会話を楽しめたと思っている。だからこそ、そこで生かした経験と思考を書き記しておきたいと思って、いまここに思考したこととか思考している内容とかをタイプしているのだけど。


他者を想像すること、に、重点を置きすぎている自分がいるな、と薄々気づいていた。他人の気持ちを考慮して行動しよう、としすぎているふしもあるかな、と思ったけど、これについて思案するのはまた次の機会。