失敗の上に成り立つ世界、それは素敵な世界

失敗を恐れる者はちっとも進歩しない。何かを恐れてことを成す事をせず、低いレベルで安定し続けるのを表向きは消極的に、内心積極的に受け入れる。ただその場に立ち尽くし続ける。明日は不安要素が出てこなければいいなぁなんて思いながら宿題もせず思考もせず呼吸のみに身を任せて布団にくるまり脳内音楽を流しながら未来へ落っこちていく。面倒くさいこと、嫌なこと、疲れることはいつだって繰り下げ続ける。そうやって課題を先送りする。今は眼前から消失しているがいずれは必ずサシでやりあう羽目になる、課題。やるべきこと。したいこと。明日をより良くしてくれること。過去に報いてくれること。役に立つだろうとか良いことに決まっているとか正しいとかかっこいいとかいったポジティブな印象を抱えられてはいるのに、体は不動。頭の中だけがめまぐるしくジャイロボールしているのに傍から見るとぼーっとしてどうでもよいことを考えているようにしか見えないだろう。だろう、なんていうふうに濁しているが、自分のことなのだからそう言ったほうがよいのだと思ったのだ。おそらく僕は他の人にはそんな風に見えている。動かない人。人は動くものを見るのは得意らしい。動かない僕は見られたもんではないだろう。

失敗という言葉は素敵だ。なぜすてきなのだろう。理由は浮かばない。でもきっとその背景にある「許す」だとか「許容」だとかの、失敗してからの流れの中に組み込まれているシステムが素敵に思われるのだろう。自らの犯した些細なミスやヘマ、はたまた常識からずれた行動が風化するシステム。失敗をなかったことにするんじゃなくあったこととして見つめた上で軽く一蹴する行為。「許す」のそんな力強さに惹かれている。理由は浮かばないとか言っておいてなんだかんだと理由を引きずり出してしまった。これもまた己に対する許しみたいなものだろうか。分からない、からスタートしたほうがすっきりした気分で考えられるからかもしれない。何を言っているのか分からない。こんな僕を許してください。

若者の言う「ノリ」は許すって事を冗談を言うことで代替しているんじゃないかとかいう結論を思ったりした。明日は弓道の審査。僕が今知りたいのは女の子とはどう会話したらよいかであり審査で出される筆記試験問題の内容ではない。そこらへんどうなんだろう。