やりたくないことをやる、という美しさ

やりたいこととやりたくないことがあるとき、やりたいことをやりたいと思っても、その感情を無視して、やりたくないことをやる、ということを自分に義務付けてみようと思い、20分ほど前から実行している。やりたくないことをやる、ということに対して感じている面倒臭さを取り除きたい、と思ったからだ。この場合、面倒臭さを取り除きたい、というのは、やりたいこと、になるかもしれない。でも、それは少し違うようにも思った。面倒臭さを取り除くためにやりたくないことをやる、というのは、やりたいことではあるが、同時に、やりたくない、とも思えるからだ。そうなれたらいいな、そうできたらいいな、という、未だ知らないことをやりたい、と思うのと、そうしたい、楽しみたい、という、既にやって楽しいことが分かっていることをやりたいと思うのとは、また何か違っていると思ったのだ。未知と既知では、楽しさと不安の割合が違うのだろうか、と考えた。おそらく、未知に対する「やりたい」は、楽しめるのではないかという展望と、楽しくなかったらどうしようという不安が、それぞれ入り混じっているからだろう、なんて思う。一言で言い換えるなら、希望、という言葉に収束できるのではないか、と思う。既知に対する「やりたい」は、これは楽しいに決まっている、という思い込みと、楽しいことはやらなくては損だ、という損得勘定と、ただ、楽しみたい、という期待が入り混じっている、と思う。言葉にしきれていない部分があるようにも感じる。僕は、既知に対する「やりたい」ばかりを優先している。が、そんな自分から脱却したい、とも感じている。未知に対する「やりたい」を優先していきたい、と思っている。希望を抱いて生きていく、ということに、憧れてしまうからだろう、と思う。しなやかで美しいな、なんて思う。不安と展望の中に身を投げる、という概念を、希望、という言葉は性質として持っている、と思っている。おそらく、その概念が好きなのだろう、と思った。逆境に立ち向かう、という言葉にも感銘を受ける。その概念を抱いて生きている女の子は素敵だろうな、なんて考えた。