心の観測者

自分が何を感じているかは意識しないと分からない。
俺は何を感じているんだろうと胃の辺りに意識を移すと、なんとなく自分の感情が分かる。
むしろそうしないと自分が何を思っているかはぼんやりしたままだ。
自分で思っている「己の感情」は間違っていたりする。
言葉にしてみてもいまいちしっくりこないことがある。
感情はなかなか言葉にできない。
リアルタイムな感情はすぐに移り変わっていくからなおさらだ。
思っているよりも自分の心の機微は自覚しにくい。
時に、言葉は心を覆う。
悲しみの色を帯びた心を「楽しい」という言葉で隠してしまっていることがある。
寂しさを忙しさで塗りつぶしてしまっていることがある。
他人の気持ちが分からないと嘆く前に、己の気持ちが分かっているかを考えてみることが、素直さなのではなかろうか。
自分の心の機微を気にかけられないままでは、相手の気持ちなんて想像することもかなわない。
自分のちょっとした心の揺らぎを言語化できたなら、相手の些細な変化や人間的な細やかさを汲み取れるのだろう。
まず自分を自分と思わずに、まったく知らない他人と思って「心」を観察してみる。
きっと自分が思っているよりもささやかに、細やかに、気まぐれに心は、たゆたっていることだろう。
観察しなければ現象は現象たりえない。自分の心はその最たるものだと思う。


自分の心を観察するのは誰でも楽しい。
アメーバを観察していて楽しくない人間はいないし。たぶん。



ああああああの子が好きですううううう。とてもじゃないが言えそうにない。とてもとても言えたもんじゃない。とても言えない。とて言えない。言えない。言えない。言わなきゃいい。そこでボディランゲージだ。はい、はい、はい、はい!好きです!言えんじゃん!みたいになったらいいなあというのが僕の希望的観測。そもそも会えてない。