日記のつもりが自分語り、ネット世代の言語感覚、一応日記

久しぶりの6時間授業だった。数学が2時間あった。毎日数学ばかりやっている。高校の数学の全体像が見えてきた。見えるだけな上に覚えているのが知識の断片ばかりなのではあるが展望を得られるので有用だ。定着できればなおよい。復習してみよう。

なんか自信がもてない。おどおどするしびくびくする。ふらふらするし視点は曖昧、おまけに気弱ときたもんだ。なんだかずっとこんな感じだ。脱却したいと思い続けてきた。変わるために実行したわずかな行為はその重みにふさわしいわずかな変化だけをもたらしてくれた。だが僕の満足がいく成長はまだない。もしかしたら現在進行中で気づけていないのだろうか。把握する術はなくはないが惑いとか躊躇が先に立つ。

その術は他の人に評価をしていただくことだ。僕はできるならしたくない。正当で真実な評価がもらえるかも怪しい。僕が尋ねようとしている友人らを疑っているわけじゃないが茶化され流されネタにされそうな気もする。いつものことだし嫌いじゃない。いじられてナンボ、かつドMというレッテル値札貼り紙その他が何重にもくっついているのが自分だと、僕自身は思っている。wwwと笑われるか、「よくわかんねー」とぽかんとされるかだと思う。そんな気がする。

気弱だといけない。なんだかいろいろしょぼしょぼしてきてしまう。

多くの言葉をつづる人は実生活ではさびしかったり不満を抱いていたりするそうな。

ネットは欲求不満者たちの吹き溜まりなのかもなって思った。
そんな風に思っている人の意見を聞いて僕の考えが上書きされたってのが正しいのかもしれない。でもネットの文章は面白いし独特だし、なによりそういう場で言語感覚を育んでしまった僕がもういる。ネットの水でできた僕の体は、よくいう「ゆとりある若者」のそれとはまったく別物なんだろう。ネットに慣れ親しんだ人と現実での何やかやに慣れ親しんだ人の間にある隔たりの中でも特別に違っているのはやはり言語感覚なんじゃないかなと確信している。

まあなんだ。言葉に頼りすぎている。言葉で自分を制御しすぎている。万物みな言葉でどうにかなると愚かにも思っている。そこんとこ反省しないと、同じ世代同士での情報格差もとい言語格差は大きくなっていくだろう。メリットデメリットは承知しているが若いうちにネットばかりやってるのも「考えすぎて考えもの」なんて思っちゃうのだった。また思っちゃった。これは日記と言えるのか疑わしい。疑った一日。これで日記だ。