自己を観察する

心を見つめてみる。意識を脳裏に飛ばして今の感情を見つめてみる。腸の辺りがむずむずする。胃の辺りが酸っぱくなる。いや、酸っぱさが少し前から持続しているのに気づく。心とは脳の作り出すちょっとした判断基準であり絶対的かつ主体的なものではない。絶対的なのは記憶である。心は曖昧だ。理解の範疇外にある。心はよく記憶に作用される。思い出し行為により気分を害することが多々ある。過去の事象に影響を受けるのは時に楽しく大抵は痛みを引きずり出す。傷がうずくと言おう。心とはとても不安定で一瞬でさくりさくりと切り替わる。思考とは移りゆくものであり断片的であり適当に外部出力したならそれこそ路上の石ころみたいな価値のよしなしごとを生み出す道を歩むだろう。今だって心にさしてはまた失せる光と影のような言葉をたたき出しているだけだ。記述者である僕が、それら言葉の羅列を見て何かをイメージするのは苦痛だ。想像力が悲鳴を上げる。読む者みなを疲れさせる文章だ。僕はバリアフリーな文章が書きたい。誰にも段差を見出させない文脈があり、忠実に頭に落とし込むだけで勝手に機能する言葉があり、読む者みなに記述者本人の脳みそをコピーしうる文章を書きたい。書いた当初の感情を自分自身に再びよみがえらせる文章を書くことだって大変なのに、境遇も環境も友人も親も嗜好も思考も何もかも未知な人間に記述者の意思をコピペしようなんて意義もへったくれもない。他者、未来の自分の中でいかようにも変質し、変質して伝わるものこそが言葉かつ文章だ。記述者が伝えるべきは思考の骨だけでいい。後は読むものが補うのだ。

気分が乗らない。目的なき思考は迷走するのだ。ゆえに僕らは瞑想する。


風呂に入りたい。足が臭い。勉強合宿から帰ってまいりました。