七転する思考

自分が書いたことがそのまま自分の財産になっていってくれるのならいくらでも書こう。でも、何の役にも立たない、読み返すと悪い心地ばかりがよみがえるような文章であっても財産になると言えるのだろうか。やみくもにログを残しても自分にとっては役に立たないことのほうが多い。読み返さないし悪い思い出ばかりが出てくるばかりで、まさしく自分を縛る手かせ足かせになりうるだけだ。僕の携帯に保存されている保護された受信メールはそういう負の財産にも似ている。付き合っていたわけじゃないが初めて「女の子とのメール」というのを体験させてくれた子とのメールだ。楽しそうな文面、丁寧だけど楽しげに配置された絵文字、何より常人の非モテならその空気にあてられてしまうような親しみオーラ、その全てが時間的には少しだけど心理的にはずっと昔に思える過去を呼び起こしてくる。メールをしていたその瞬間・その時々を思い出してはもどかしいやら嬉しいやらで辛いやらなんやら。まーそんなこともありまして何でもかんでもログのこしゃいいってもんでもねーんでないかな、なんつー考えがよぎり続けていたので書き残したいと思い書き残しました。いやほんとはそんな気なかったんだけど勢いで書いてしまったという。書けることはなんでも出していくスタンスでいってみようというわけです。こうして残した言葉はなにも自分だけじゃなくてこれから先ネットを徘徊する人々が読むかもしれないのですね。自分にとっては意味はなくとも距離時間ともに遠くにいる人にとってはなにかの情報源になるやもしれないと考えるとログは残すべきだとも思えるわけで。でも自分の文章にそれほどの価値があるというのはまた思いあがりに過ぎなかったりもするんでしょう。せっかく書いたなら残しておいたほうがいいし、せっかく過去の断片があるのならメールでもゴミでもとっておけばいずれゆくゆくの自分やどこかの誰かが何かに使えるかもしれない。そんな考えでいるとゴミ屋敷ができたりいつまでも思春期な人間ができたりしてしまうんだろうけど。ある程度はいつぶっ倒れてもいいように身辺整理しといたほうがいいかな、とも思うのです。でもやっぱり、かえすがえす「でもでも」言ってうっとうしいですが、ゆくゆくのことまで考える必要はないのかもしれません。そのために子孫なんて作るのだろうし。