全て選択できる状況にしておきたい症候群

いつもと比べたらかなり外出した気がする。期待していなかった予定が予想以上に楽しかった。やはり体験するまでは分からないんだなぁ。大体のことはそんなもんか。そういややった気がしてるだけで毎日何もしてないし。だるい疲れるめんどくさいが行動を阻害しまくっている。そんなのに阻害される意志の弱さがいけないんだがなかなか勝てない。別に勝たなくてもいい気がしてしまう。そのうち誰かが喝を入れてくれて、そうしてもらうことで信条とか心の入れ替えが起こるんじゃないかという淡い期待がある。そんな親切な人の到来を待っていると自然と優柔不断人間が完成するわけだ。なんと末恐ろしい。もちろん悪い意味で恐ろしい。俺の将来はどうなるのか!?次号、未定!みたいな怖さがある。どうにかしてこの「だるい→でもやらなきゃ→いずれ喝が→じゃあ待つか」な負の連鎖を絶たないと一生優柔不断で生きていくのかもしれない。でもなぜだろう。優柔不断でいる自分を失いたくない。みたいな思いも、またあるのだ。決断することで確実に何かの可能性を叩き潰しているわけで。やれという命令ならば、自分は嫌々やるだけで決断はしていない。可能性は潰えない。しかし自分で「やる!」と言ってしまえばやる以外の選択肢はおのずと消える。想像する対象としてもなりえない。それが怖い。何かをすると決めた時、何かの可能性は消滅する。もしその可能性がさらにすばらしい体験をもたらすものであったとしたら。そんな仮定が後ろ髪を引いているのだろうな。逃げ口上と言われたとすりゃ否定しきれないけど。