まいにちの心構え

毎日毎日生活していく上での心掛けはどんなものがよいのだろう。頭を限界まで使って常に最良の結果を出すように生きていくべきか。心と体のおもむくままに大体の感覚と経験則で、どちらかと言えば主観寄りで生活していくべきか。頭を限界まで使っていくと時間がかかる。加えて自分にとっての最良が出てくるだけで他者からしてみれば特にいつもと変わりないと判断されるだろう。経験則とその場その場のとっさの判断で生活するというのはどうだろうか。いちいち思考しないわけだから素早く行動できるわけだし間違いを犯した場合はすぐ学べるはずだ。要は対症療法的な生き方なわけだ。逐一思考を挟むよりは間違いが増えはするだろうが楽にはなるし何よりきびきびとした行動が可能になる。だが頭を使って生きるにしても素早く思考を行えるならばもっとよりよくはなるだろう。ひたすら感覚と経験則で生きるにしても、正しい判断基準を心に刻んであるならば心のままに生きても判断ミスは増加しないのだろう。孔子がそんな感じのことを言ってたと思う。思いどおりに生きても判断を誤らない。いったい毎日どう過ごしていけば、んな体になれるんだろう。高所で生きている人は低地で生きている人より特に意識しなくても肺活量が高いらしい、というかそんな思い込みがあるのだが、孔子も似たような理屈で精神的な高所でもって生きていたのだろうか。自分がそうなるには、自然体が美しい人たちが多く集まるような場所にいればいいということだろうか。逆に劣悪な環境だと心が荒むのか?そうではないだろうな。スラムであれど人間の基本的な倫理観はそれほど違わないだろう。環境もまた一要因に過ぎず、個々の生き方が大部分を決めていると言えるかもしれない。ではどう生きろというのだろう。最良の結果を目指して生きるか、基本は心のおもむくままで過ごし間違うことでのちのち自然体でも最良に至れるよう生きるか。もちろん結果も素早い判断も満足のいくものであったほうがいいのではあるが、頭は使うほどによくなるものだとも言えるのだろうし、はたまた日々の中では素早さもまた大事だとも言える。両立となるとやたらとややこしいものだ。