自分っているのか?

死にそうだ。頭が痛くて死にそうだ。理由は分からない。何か悩みがあるからのような気もする。それだけのことで死にそうだ。すごく痛いわけじゃない。どれだけ時間がたっても痛いのだ。常に痛いのだ。これまた理由は分からない。思い込みなのかもしれない。自分の心ばかり気にしているし、記憶を手繰るのに神経をとがらせていたからかもしれない。現実から目をそらすため、起こりうる失敗をできる限り減らすため、そのことばかりに腐心したせいかもしれない。現実というのはつまり見つめがたい光景だ。自分という存在が認められているか分からない状態だ。何人かと一緒にいても会話になかなか参加できないような状況。そもそも会話相手がいないような状況。その場の雰囲気になじめない状況。とにかく僕にとって気軽に話すことができない状況だ。人のことを気にしすぎてしまうのだ。何か人を怒らせたりしまうような、軽蔑されるような発言、自分という存在を見限られてしまうような言葉を言わないように注意しすぎてしまう。友人であれ家族であれ周りから人というものを失いたくないのだ。失えばむなしくなる。騒がしさが消えるからだ。相手にされないのはつらい。孤独ゆえだ。自分の考えとは別に好き勝手に動く他者がいないということは自分目線の世界しか味わえないし見られない。これこそ孤独だろう。本やインターネットの掲示板では人間本体を感じられない。しょせん言葉という道具を介して起こされている人間そのものとはいえないいわゆる影だからだ。自ら能動的にならなくては感じられない存在など影同然だろう。読もうとして、実際に読み、何らかのイメージを想像しなくてはならないというのは能動的な行動が必要とされているといえるだろう。人間そのものは能動的でいなくてもただそこにいれば感じられる。近くにいれば感じられる。だが、いたくない場所にいたとき、周りに多くの人がいても、僕はその人々を感じたくはない。その存在は「ある」「いる」というだけで苦痛だからだ。僕自身を傷つけられるのではないかという恐れがあるのだ。口にした当人としては何てことないであろう言葉、向けた本人には分からないであろう表情、そして彼ら自らが醸し出していることに気づいていないであろう空気、そのすべてが恐ろしい。ずたぼろにされ、正気を保てなくなりそうで。言葉も表情も空気にも、人を殺せる力がある。感じ取れば最後、したくない想像を強いてくるからだ。見捨てられる、拒絶される、避けられる、馬鹿にされる、疎遠になる、嫌われる、すべてしたくない想像たちだ。どれも痛みを生じる。心を砕くような痛みだ。たとえば精神を侵すような痛み、体を駆け巡ってしまえば自然と死に向かってしまうような痛み。思考による制御がきかないような痛み。「頑張るんだ。耐えるんだ」と胸の内で叫ぼうと、すべて放り出して破滅に歩んでしまうような感じだ。生を求めるはずの無意識が自滅を願ってしまうような感じ。そいつがいつ僕に襲いかかってくるのかが分からないという恐怖がいつまでもいつまでも頭に引っかかっている気がするのだ。ずっと前にそんな心情になった覚えがある。何かを食べても味が分からない、自分の心を落ち着けるのに精いっぱい、自分でも理由の分からないとんでもないほどの恐怖、そんな心情だ。否定したいのにできない、でも打ち倒さないことには何もできない恐怖だ。実際打ち勝ったのかどうかは今はよく分からない。当時は無理やりに理屈をつけてどうにか押しとどめたように思う。「自分は確かにいる。感情というものを知っている。ならばそれを作った何がしかもいるはずだ。だったら僕は一人じゃない。少なくとも、僕と、それらを創造した何かは存在しているはずだ」と。言ってみればその何かは神様だとか宇宙の真理だとかあらゆるものの根源だろう。形のない何かだとしか言えないが。全然想像もつかない。そもそもそんなのは僕の妄想に過ぎないのかもしれない。あるかないかはっきりしていない上にはっきりさせる方法すらもきっとないだろうから。いずれ科学でそういうものの存在を証明できたら凄いだろうなとは思う。せっかくだからもっと訳の分からない疑問についても考えようと思う。だいぶ危ない感じな気がする。感じている自分は確実にあるとデカルトさんは言っていたらしい。ほんとか?そいつが疑問だ。自分はいるぞ、と認識している心、もしくは精神が嘘っぱちだったらどうなのだろう。その心は作られたものであるとか。


・・・いろいろ考えてみたがどう考えても何らかの存在は認めざるを得ない。だが心が認めていない。微妙に否定しきれていない。否定したくないのだろう。そういう疑念を残しておけば逃げの理由になるからだ。「物質とか心とかほんとはねーよwwww」と思って心理的にわずかではあれ逃げてしまえるように残しておきたいという心理が働いているのだろう、とおぼろげながらに思う。もしくはこれ以上突き詰めるといろいろあとアホになってしまいそうな気がしているからかもしれない。無意識にそう思っているのかも。やはり人は無意識に生存を望むものであり危なげなことはしないようになっているとか。どうしてか。死ねば終わりだからだ。なんもないのだ。感じる主体としての自己が消滅する。つまりは体が朽ちて個を保ち思考を行えるほどの生体でいられなくなり、いわゆる粉レベルまでバラバラになる。粉、って言うとなんかとりあえず細かいって感じがするから粉だ。そうなれば自己の存在を肯定することはできなくなる。認知はされても認知はできなくなる。もしかすると物質自体が自分たちを認識したいがために生命という秩序をなしているのかもしれない。・・・我ながらまた危ない方向に思考が進んでいるような。でもちょっと新しい視点な気はする。


長々と書いてきたけれど頭の痛みは取れない。幻痛なのかもしれない。つーか単純に愛に飢えてるのかもしれない。なにがしかの。