思いつきを書き殴ることの価値と弊害

思いついたことをよく考えもせずに書き綴ることで得られるものってなんだろうか。ひとつは、気にも留めていなかった些細な出来事を書くことではっきりと認識することができる点か。

忘れそうなことをより記憶に残る形で殴り書きしておくという手がある。未来の自分に当てた備忘録作成にちょうどいい書き方だろうな。備忘録自体、未来に当てたものに決まっているんだけども。いや、案外、未来に当てたものだけであるとは限らないか。自分ではない他の人々に向けて書くことができる。残すことができる。あーでもそれって対象が違うだけであって、「未来」に当てた文章であることに違いは無いな。やっぱ備忘録が機能するのは未来においてだけだな。

・・・よく考えたら過去で作用する「何か」ってありえないな。何考えてんだ自分。何かを認識するのはいつだって「今」であって、その「今」が存在しているのは「未来」だけじゃないか。

でも、過去の書き換えができるって点では、何らかの作用をもたらすことはできるんでなかろうか。記憶の改竄というやつ。人間は知らず知らずのうちに記憶を想像によって美化したり都合よく変化させられる能力を有しているみたいだし。一種の自己防衛機構というやつなのかな。

となると、むしろ能力というより、そうならざるを得ないんだから、人間の脳というハードに与えられた仕様みたいなものなのかな。だとすると、それを生かすも殺すも自分次第なわけか。そもそも、物事の認識は個々人によって千差万別であるからして、記憶という二次的な把握以前に、認識という一次的把握の時点で現象の改竄は行われてしまっているんだよな。つーことは、「記憶という過去」の改竄は容易なんてもんじゃなく、既にやってしまっているんだな。無意識に。それって意識してないとかなり怖いことではあるな。

自分の中で至った結論は「備忘録は過去、今、未来のどこででも機能するけど、書いた瞬間に意図していたかたちで機能することはなく、都合のよい改変が付属する」というところだろうか。



なんかすごくナチュラルに思考が逸れていってしまった。思いつきを書くことで生まれる弊害は思考がずれていくって点か。殴り書きはここによく留意して行う必要がありそうだなー。思考が下手くそなだけか。

他に思いつきを書くことの価値ってあるだろうか。行き当たりばったりな殴り書きに、どんな価値が見出せるだろうか。