反省点と実体験の重要性などの羅列

自分でやってみることは大切だ。何事にせよ大切だ。勉強だってそうだろう。先人がすでにやっていようとも僕はよく知らないもの、というのがある。ある映画に、あの映画は面白くない、という評価が誰かによりなされたとする。僕はそれを聞いて、面白くなかったのだな、と思うだろう。だが僕がその映画を見たいと思ったのなら、きっと見に行くことだろう。いや、今の僕ではそのように行動する可能性が低い。理想の自分を書いてみているのだろう。なんにせよ、僕は面白くないと言われた映画を見に行くことだろう。伝聞の間にはおどろおどろしいまでに巨大な壁がある、と思っているからだ。体験を聞くことは、「その体験を聞く」という体験を得られるだけである。体験者本人の体験そのものはどこの誰にも伝わらない。体験談を聞いた者の頭の中には体験談のみが残る。体験は残らない。体験することで得られる変化は、体験談を聞いた者には訪れない。むしろ変化は来ないばかりか、変化できる可能性すら失うかもしれない。体験談の聞き手は、「体験談を聞いた」という事実を実際に体験したものだと置き換えてしまうかもしれない。それではいけない。聞いたことを自らの体験とすることは、すなわち成長の停止である、と考えるからだ。それ以上育たない。ほんとはやっていないんだから。

だからまあやってみるのがよいだろう。痛みを伴ってみるのがよいだろう。世界に対してドMになるのがよいだろう。世界×僕で、世界攻めの僕受けがいいだろう。そして成長した暁には、僕は世界に対して攻めの姿勢をとるのだ。いつかひぃひぃ言わせてやるよ。この素人童貞さまがな!ひぃ!