wind

昨日から風邪気味です。すげーだるかったので日記書かないで寝ました。一応2週間くらい続けられたしいいかな・・・っていう感じで。まぁ強制じゃないからいいんすけど。自分の中の厳格さが強制してきたような気もするんすけど。今日できたしオッケーってことで。めっちゃ書いて疲れた。ちなみに風邪は治り気味なのでちっちゃい子も安心だね!火曜日から学校なので月曜までには完治していて欲しいなあ。

自分っているのか?

死にそうだ。頭が痛くて死にそうだ。理由は分からない。何か悩みがあるからのような気もする。それだけのことで死にそうだ。すごく痛いわけじゃない。どれだけ時間がたっても痛いのだ。常に痛いのだ。これまた理由は分からない。思い込みなのかもしれない。自分の心ばかり気にしているし、記憶を手繰るのに神経をとがらせていたからかもしれない。現実から目をそらすため、起こりうる失敗をできる限り減らすため、そのことばかりに腐心したせいかもしれない。現実というのはつまり見つめがたい光景だ。自分という存在が認められているか分からない状態だ。何人かと一緒にいても会話になかなか参加できないような状況。そもそも会話相手がいないような状況。その場の雰囲気になじめない状況。とにかく僕にとって気軽に話すことができない状況だ。人のことを気にしすぎてしまうのだ。何か人を怒らせたりしまうような、軽蔑されるような発言、自分という存在を見限られてしまうような言葉を言わないように注意しすぎてしまう。友人であれ家族であれ周りから人というものを失いたくないのだ。失えばむなしくなる。騒がしさが消えるからだ。相手にされないのはつらい。孤独ゆえだ。自分の考えとは別に好き勝手に動く他者がいないということは自分目線の世界しか味わえないし見られない。これこそ孤独だろう。本やインターネットの掲示板では人間本体を感じられない。しょせん言葉という道具を介して起こされている人間そのものとはいえないいわゆる影だからだ。自ら能動的にならなくては感じられない存在など影同然だろう。読もうとして、実際に読み、何らかのイメージを想像しなくてはならないというのは能動的な行動が必要とされているといえるだろう。人間そのものは能動的でいなくてもただそこにいれば感じられる。近くにいれば感じられる。だが、いたくない場所にいたとき、周りに多くの人がいても、僕はその人々を感じたくはない。その存在は「ある」「いる」というだけで苦痛だからだ。僕自身を傷つけられるのではないかという恐れがあるのだ。口にした当人としては何てことないであろう言葉、向けた本人には分からないであろう表情、そして彼ら自らが醸し出していることに気づいていないであろう空気、そのすべてが恐ろしい。ずたぼろにされ、正気を保てなくなりそうで。言葉も表情も空気にも、人を殺せる力がある。感じ取れば最後、したくない想像を強いてくるからだ。見捨てられる、拒絶される、避けられる、馬鹿にされる、疎遠になる、嫌われる、すべてしたくない想像たちだ。どれも痛みを生じる。心を砕くような痛みだ。たとえば精神を侵すような痛み、体を駆け巡ってしまえば自然と死に向かってしまうような痛み。思考による制御がきかないような痛み。「頑張るんだ。耐えるんだ」と胸の内で叫ぼうと、すべて放り出して破滅に歩んでしまうような感じだ。生を求めるはずの無意識が自滅を願ってしまうような感じ。そいつがいつ僕に襲いかかってくるのかが分からないという恐怖がいつまでもいつまでも頭に引っかかっている気がするのだ。ずっと前にそんな心情になった覚えがある。何かを食べても味が分からない、自分の心を落ち着けるのに精いっぱい、自分でも理由の分からないとんでもないほどの恐怖、そんな心情だ。否定したいのにできない、でも打ち倒さないことには何もできない恐怖だ。実際打ち勝ったのかどうかは今はよく分からない。当時は無理やりに理屈をつけてどうにか押しとどめたように思う。「自分は確かにいる。感情というものを知っている。ならばそれを作った何がしかもいるはずだ。だったら僕は一人じゃない。少なくとも、僕と、それらを創造した何かは存在しているはずだ」と。言ってみればその何かは神様だとか宇宙の真理だとかあらゆるものの根源だろう。形のない何かだとしか言えないが。全然想像もつかない。そもそもそんなのは僕の妄想に過ぎないのかもしれない。あるかないかはっきりしていない上にはっきりさせる方法すらもきっとないだろうから。いずれ科学でそういうものの存在を証明できたら凄いだろうなとは思う。せっかくだからもっと訳の分からない疑問についても考えようと思う。だいぶ危ない感じな気がする。感じている自分は確実にあるとデカルトさんは言っていたらしい。ほんとか?そいつが疑問だ。自分はいるぞ、と認識している心、もしくは精神が嘘っぱちだったらどうなのだろう。その心は作られたものであるとか。


・・・いろいろ考えてみたがどう考えても何らかの存在は認めざるを得ない。だが心が認めていない。微妙に否定しきれていない。否定したくないのだろう。そういう疑念を残しておけば逃げの理由になるからだ。「物質とか心とかほんとはねーよwwww」と思って心理的にわずかではあれ逃げてしまえるように残しておきたいという心理が働いているのだろう、とおぼろげながらに思う。もしくはこれ以上突き詰めるといろいろあとアホになってしまいそうな気がしているからかもしれない。無意識にそう思っているのかも。やはり人は無意識に生存を望むものであり危なげなことはしないようになっているとか。どうしてか。死ねば終わりだからだ。なんもないのだ。感じる主体としての自己が消滅する。つまりは体が朽ちて個を保ち思考を行えるほどの生体でいられなくなり、いわゆる粉レベルまでバラバラになる。粉、って言うとなんかとりあえず細かいって感じがするから粉だ。そうなれば自己の存在を肯定することはできなくなる。認知はされても認知はできなくなる。もしかすると物質自体が自分たちを認識したいがために生命という秩序をなしているのかもしれない。・・・我ながらまた危ない方向に思考が進んでいるような。でもちょっと新しい視点な気はする。


長々と書いてきたけれど頭の痛みは取れない。幻痛なのかもしれない。つーか単純に愛に飢えてるのかもしれない。なにがしかの。

時間ちょーもったいない

刻一刻と忍び寄る夏の休暇の終りがなんとももどかしい。もどかしいだと何かおかしい気がするけど。やっぱ明けたら明けたでまた早く休みが来るように願っちゃうんだろうなぁ。休み中はあれがしたいこれをやらなきゃでもあー明日でいいかな来週でいいかなーとどんどん繰り上げてしまって結局休みなのに休めない。何も進まない。「時間を無駄にしていくとどうなるか」ってことすらも学べない。確実に無駄にしてるのに学べない。一応何かは身についていってるはずって感じの心境のままだからだ。ニート予備軍だ。やる前に諦める、ってのばっかなんだよなぁ。人間「よく分からない恐れ」が増長するとなんもできないもんだ。あーもったいないぜ。

まいにちの心構え

毎日毎日生活していく上での心掛けはどんなものがよいのだろう。頭を限界まで使って常に最良の結果を出すように生きていくべきか。心と体のおもむくままに大体の感覚と経験則で、どちらかと言えば主観寄りで生活していくべきか。頭を限界まで使っていくと時間がかかる。加えて自分にとっての最良が出てくるだけで他者からしてみれば特にいつもと変わりないと判断されるだろう。経験則とその場その場のとっさの判断で生活するというのはどうだろうか。いちいち思考しないわけだから素早く行動できるわけだし間違いを犯した場合はすぐ学べるはずだ。要は対症療法的な生き方なわけだ。逐一思考を挟むよりは間違いが増えはするだろうが楽にはなるし何よりきびきびとした行動が可能になる。だが頭を使って生きるにしても素早く思考を行えるならばもっとよりよくはなるだろう。ひたすら感覚と経験則で生きるにしても、正しい判断基準を心に刻んであるならば心のままに生きても判断ミスは増加しないのだろう。孔子がそんな感じのことを言ってたと思う。思いどおりに生きても判断を誤らない。いったい毎日どう過ごしていけば、んな体になれるんだろう。高所で生きている人は低地で生きている人より特に意識しなくても肺活量が高いらしい、というかそんな思い込みがあるのだが、孔子も似たような理屈で精神的な高所でもって生きていたのだろうか。自分がそうなるには、自然体が美しい人たちが多く集まるような場所にいればいいということだろうか。逆に劣悪な環境だと心が荒むのか?そうではないだろうな。スラムであれど人間の基本的な倫理観はそれほど違わないだろう。環境もまた一要因に過ぎず、個々の生き方が大部分を決めていると言えるかもしれない。ではどう生きろというのだろう。最良の結果を目指して生きるか、基本は心のおもむくままで過ごし間違うことでのちのち自然体でも最良に至れるよう生きるか。もちろん結果も素早い判断も満足のいくものであったほうがいいのではあるが、頭は使うほどによくなるものだとも言えるのだろうし、はたまた日々の中では素早さもまた大事だとも言える。両立となるとやたらとややこしいものだ。

全て選択できる状況にしておきたい症候群

いつもと比べたらかなり外出した気がする。期待していなかった予定が予想以上に楽しかった。やはり体験するまでは分からないんだなぁ。大体のことはそんなもんか。そういややった気がしてるだけで毎日何もしてないし。だるい疲れるめんどくさいが行動を阻害しまくっている。そんなのに阻害される意志の弱さがいけないんだがなかなか勝てない。別に勝たなくてもいい気がしてしまう。そのうち誰かが喝を入れてくれて、そうしてもらうことで信条とか心の入れ替えが起こるんじゃないかという淡い期待がある。そんな親切な人の到来を待っていると自然と優柔不断人間が完成するわけだ。なんと末恐ろしい。もちろん悪い意味で恐ろしい。俺の将来はどうなるのか!?次号、未定!みたいな怖さがある。どうにかしてこの「だるい→でもやらなきゃ→いずれ喝が→じゃあ待つか」な負の連鎖を絶たないと一生優柔不断で生きていくのかもしれない。でもなぜだろう。優柔不断でいる自分を失いたくない。みたいな思いも、またあるのだ。決断することで確実に何かの可能性を叩き潰しているわけで。やれという命令ならば、自分は嫌々やるだけで決断はしていない。可能性は潰えない。しかし自分で「やる!」と言ってしまえばやる以外の選択肢はおのずと消える。想像する対象としてもなりえない。それが怖い。何かをすると決めた時、何かの可能性は消滅する。もしその可能性がさらにすばらしい体験をもたらすものであったとしたら。そんな仮定が後ろ髪を引いているのだろうな。逃げ口上と言われたとすりゃ否定しきれないけど。

中肉中背、心は中二、コナン=新一

心の枠にとらわれているようだ。精神の枠に押し込まれてたようだ。すべてをすべて既存の何かで心に表わそうとしていたようだ。実に貧相な生き方になってしまっていた。しょせん人間が感じる何かなんて全て脳が作り出している感覚に過ぎず外部などなくても人はあらゆるものを感じていけると思っていた。いや今だって思っている。だってきっとそれはほんとのことだろうから。映画を見て感動したって、その感動は脳が作り出したもので映画自体が感動を帯びているわけではないのだから。だけどその考え方ではちっとも満足には生きられない。外を一切否定して内側にのみ神経を集中させることにしかならない。それでは何も得られない。感覚が全て脳による産物だとしても、脳がそれを作り出すきっかけになったものはどうあがいても変えられない、外にあるものだ。認識できるものにしか認識が及ばなくても、感じられていないだけで外側の何かは確実にあるのだ。外と内という表現もおかしいかもしれない。人間の体だって、おそらくは精神と呼ばれるものだって、すべて物理・化学法則なんかで動いてる、できているはずだ。ならば自己の本質であろう心と目に見えるいろいろなものを隔てて、確実にあると言えるのは心だけだ、なんて言うのはおかしいのだ。ちょっとオカルトちっくな気がするけど自分を納得させる屁理屈としては使えるんでないだろうか。なにはともあれ僕はどうも中二病っぽい思い込みを捨てきれないでいるようだ。どうしたら捨てきれるのだろう。なにかに活かせるのだろう。踏み台にしていけるんだろう。つーわけでとても悩んでいます!やることがないとすぐに訳のわからない方向に・・・

毛のないノミの心

毎日毎日何を書けばいいのやら。ほんと何にもない。と言ってしまえば何にもなかったことになってしまう。もっと日常の細部を穿っていくように観察していくべきなのかもしれない。でもどうでもいいことを書くのもあれだしなぁ。あれってどれなんだか。そういう問題でもない気がするしなぁ。要は力が有り余っているんだ。やることがないというかやろうとすることに期待しすぎなんだ。「これはすばらしいぞ」判定を自分でつけたものでないとそれをするに値しないという認識が強すぎるのだ。まずそのハードルを下げていかないといけない。というような〜するべき、だの〜でないといけない、つー言い回しというか断定もよろしくなさそうだ。思考に制限がかかる。つーのも思い込みを強める要因だと言えるだろうが。いちいち認知対象が後退していては疲れるばかりだ。自分には自己対象化を自然とやってしまう癖があるらしい。これは自己対象化のたまものだ。たぶんそんな気がする。だって今憧れているものは没頭だもの。何も顧みず外側をただ見つめて自己存在の有無などあってもなくても構わないとなりふり気にせずのめりこみたい。そのための対象を探している状態なのかもしれない。それはなにかを解決したいがためにとる一種の手段なのか、それとも没頭自体が目的なのか。求めているものは熱中のようだ。